昭和49年6月16日 朝の御理解
                              中村良一
御理解 第75節
「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」



神様が見ておって下さる。いつも、見守っておって下さる。という事が、ほんなら、分かることが、御道の信心だと言うても良いのです。御道の信心を、段々分からせて頂いて、その事が分かる。神様のお守りを受けておる。神様は見ておって下さる。それを分かる、それを信ずるから、いわゆる、何事にも信心にならせて頂くという事になるのです。ね。問題は、心の中に思うておる事でも、神様は分かっておってくださるのですから、心の中も、良いことを思わせてもらう。ね。悪いことをしてはいけない。良いことをさせて貰う。自然と、神様の、いわゆる、機感に叶う、お心に叶う生き方が出来るから、お徳も受ける、おかげも受けるという事にもなるのです。ところが、信心をしておっても、お話を頂いておっても、そこが、何時までたっても、分からない人があります。神様のご指導を受けておる。神様が見ておって下さる。神様が、付いておって下さる、という事が分からない。分からないから、本当のおかげになってこない。また、分からんから、改まることも、磨くことも、ようせんのです。ね。金光様の信心は、なるほど、疑えば限りがありません。神様は、声もなからなければ姿も無い。ね。疑えば、限りないのですけれども、ね。それを信ずるという事が信心なのですから。いわゆる、神様を信ずる。働きも信ずる。神様が、何時も見ておってくださるという事を信ずる。ね。しかも、ここでは、心で人を殺すと。心で人を、いわば、切りつけたり、殺したりすることを、神様が、見ておられるのです。ですから、ここでは、心で癒し、心で助ける、生かすことも出来ることが分かります。心で殺すことも出来れば、切りつけることも出来る。ですから、その裏を返しますと、心で生かすことも、助けることも、ね。または、傷ついておるなら、傷ついておる者を、心で癒してあげると言うことも出来るという事が、また信じられてくるように、段々なってきます。
だから、信心させて貰うて、御教えを頂くという事は、自分の心ひとつで、人を生かすことも、または、助けることも出来るという事が、まず先にある。分からせて頂く修行をしなければいけないと思う。ね。例えば、自分の心で、人を喜ばせる。自分の心次第で人を喜ばせる。人の心を生かす。ね。それが、段々、おかげ頂いていくと、人の心を、いわば、人の心一つで、人を助けることが出来る。ね。そういう、私は、稽古を、先ずさせて貰うのが信心の稽古です。
私はあの、毎晩、夜中に、一遍、こう、お広前にお寄りしてきますから、一遍通り、ずーっと回るんです。それで、マルショウなんかのが泊り込んで、信心の稽古をさせて頂いておる時などは、必ず、私は、ふすまを開けて見ます。もう布団は、跳ね除けてから、こうしとるともおるし、ね。まぁだ、起きてから、ごちょごちょ、何か、その話したりしておる者やらが居ります。はぁ、はよ休まにゃ、ね。ですから、もう夜中に、先生が出て回られると分からんから、行儀ようして休んどかねばならんと、例えば、教えられたり、思うたりする。ね。ですから、そういう稽古を、先ず、先にするんです。ね。夜中、親先生が回って見える。だから、行儀ようならなきゃならん、早く寝らなければいけない。ね。先生が、見て回られるから、行儀ようしとかにゃいかんと言うて、行儀ようする稽古をするのです。ね。
今日、私、皆さんに言っておるのも、ね。神様が見てござる。神様が見てござるという事を分からせて頂く為に、ね。いわば、信心の作法というか、行儀というものがです、身に付いてこなければいけない。ね。先生が見てござるから。良く聞くことですけれども、あっちはもう、親先生の前だけでも、ぴしゃりやりござるばってから、もう、家に帰らっしゃると、そうでなかと言うのがある。けれどもその、親先生が、見てござる時だけでも良い、本当に、信心にならせて頂くということは有難い。ね。稽古ですから。それが、段々、出来てまいりますとです。いわゆる、神様の機感にかのうた事が、少しずつでも出来ると、自分の心の上に、自分の心が助かっていくものを感ずる。ね。言うならば、心で人を助けることが出来るという事が、有難いという事が分かってくる。ね。言うならば、見てござるから、行儀ようするという事でもです、ね。行儀良くするという事が、自分も人も、いわば、助かる稽古であるという事が分かってくる。ね。
例えば、まぁ、実際で言い合ってもです、ね。まぁお広前で、皆さんが、大変、まぁ言うならば、信心のまぁ作法と言うか、日頃教えられることを、きちっと守ります。履物なら履物一つでも、きちっと脱いで上がる。そこに、乱れた下駄があるならば、誰が見よらんでも、それを綺麗に揃えると、例えば、言うような事をします、ね。自分の心に、それを感ずる。それが、信心の、言うなら、作法だ、行儀だと分かってそうする。ね。自分の気持ちの良いだけでなくてです。今度は、それをまた、見た人が助かるのです。見た人が気持ちが良いのです。ね。それはもう、既に、大きく言うと、もう人が助かることになるのです。だから、そういう、私は、稽古を本気でしなければいけない。合楽に泊まった時だけ、合楽に居る時だけ、ね。お広前に居る時だけでも、そういう稽古をさせて頂くという事が有難い。ね。勿論、それをです、段々、自分の心の上に、人が助かったり、自分の心が助かったり、心が嬉しゅうなったりする事が、段々、実感して分からせて頂く様になると、ほんなら、家に帰っても、お広前ではなくても、ね。人が見よろうが見よるまいが、そうしなければおられないものが生まれてくる。ね。そこには、神様が、必ず、心の上に、形の上に、おかげを下さる。心が嬉しゅうなる。心が喜ばしゅうなる。その喜ばしい心に、おかげが頂けて、段々くるようになる。ね。そこで、ほんなら、神が見ておると。それと反対のことをする事を、神様の機感に叶わぬという事。神様が、喜びなさらんことを、心の中に言うたり、思うたり、行うたりするという事はいけない。ね。心で殺すことが重い罪だとこう仰る。それが、今度、本当に分かってくる。信心が、段々、進んでまいりますと。ね。
教祖様のお言葉の中に、もうご晩年の頃は、それを、参ってくる信者氏子に、言いよりましたという事でございます。信心に、身が入ってくると、神様のお試しがありますぞと。まぁ言うならば、神様が、お気付けを下さる。ね。それは、神様が下さるのですから、ね。姿形には分かりませんけれども、ね。形の上に現して、例えば、痛い思いをさせたり、ね。びっくりする様な思いをさせたりして、神様の、言うならば、働きを見せてくださる。はぁお気付け頂いた。
私は、神様からね、悪いことをしても、ね。言うならば、術ないことを思うたり、行うたりしてもです。すぐお気付けが頂けれる様に、段々、ならにゃいけないと思う。それが、神様が、段々、見てござることが分かってくる様になるとです、ね。もう、ちょっと、自分の心の中に、有難いことを思うただけでも、神様が、少しでも喜んでくださる印を、オイサミなんかで現しなさる。ね。そうなってくると、もう、神様の喜んで頂けれる、神様の機感に叶う事を言うたり、思うたりしなければおられなくなってくる。もう、誰が見よろうが見よるまいが、ね。段々、信心を高めていくという事は、そういう事だと思うんです。そして、神が見ておると、私は教えられるところを、一つ、まぁ焦点をおいて聞いてます。神が見ておる、神様が見ておられると言う世界に住んでおる。神様が見ておられるという事を、信ずる稽古が、信心だという(程度におく、?)ね。ですから、それを本当に実感し、神様が見てござることを、段々、分かってくるから、ね。神様にお喜び頂けれる心を育てていかなければおられない。勿論、人を、心に傷つけたり、殺したりする様な事は、もう、馬鹿らしゅうして出来なくなってくる。それでも、人間、生身を持っておる事ですから、どこにお粗末ご無礼があるやら分からん。知らず知らずのうちのお粗末、ご無礼が出来てまいりますとです。神様が、ほんなら、もう、手ずから、お気付けを下さってでも、本当なことを分からせよう、正そうとして下さる働きが分かるようになる。ね。そうなってくると、いよいよ、神様と身近な、いうならば、交流が始まるようになる。悪い事で交流するじゃなくて、神の機感に叶うことで、神様と交流しだす。そこから、御徳が受けられ、限りないおかげにも繋がっていくことが出来るという事になります。ね。
今日は、それとは反対のところを、七十五節では説いてあります。心で殺すのは重い罪じゃ。ね。悪いことでも、神様と交流する、分かる、神様が見ておいでられる。だから、いうなら、お気付けを頂くようにもなる。また、それに気付かないと、それでは、御徳も受けられなければ、おかげも受けられないという事が、段々、分かってくる、こなければならぬ。ね。ですから、始めの間は分からん。誰でも分からん。ね。けれども、はぁ親先生が、夜中に、何時、回って来なさるじゃら分からんから、早く、行儀ようして休まんならん。そういうところから、稽古はさせてもらうのです。そして、行儀ようしておるという事が有難いことが、段々分かってくる。ね。それで、家に帰っても、ほん本なら、そういう行儀を見習うて帰らせて貰うて、ね。子供達が、合楽に行くたんべんに、何とはなしに変わってくる。良いほうに変わってくる。こりゃ、子供だけの事じゃない。私共の、ほんなら、大人の場合だって、理屈は同じ事です。ね。お日参りの、言うなら、考え方がです。有難いならば、それをそのまま、やはり、家に帰っても、それを、行儀を習わしていく稽古をさせて頂いておると、始めの間は分からん。幾ら、よかこつしたっちゃ、いっちょん別に、その、神様が喜んでくださるか、なんか分からん。おかげも頂かん、分からん。けれども、それが、積もり積もっていくうちにです。神の機感に叶うた生き方を、神様が見ておって下さるのですから、必ず、おかげになって来ると言う事をです、ね。真実、それが分かるという事が、私は、信心だと言うても良い。ね。神様が、ご照覧の世界に生き抜くことが、私は、信心だという事になります。